野邨宗十郎銅像銘

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目黒不動にある野邨宗十郎銅像の銘文。見慣れぬ字が多く困っていたところ、墓碑史蹟研究に釈文を見つけました。

国立国会図書館デジタルコレクション - 墓碑史蹟研究. 第9巻

うち2字不審(擧→奉、當→會か)、またいくつかの字を銘の字体に近づけ、字詰も合わせて釈文を示すと次のとおり。

君諱宗十郎安政四秊五月四日生于長崎薩摩屋敷服
部氏出嗣野邨氏少入新街新塾受活版術于昌造本木
翁明治六年入東京大學豫備門以病退十二年任大蔵
省銀行局員尋轉主計局二十二年辭官入築地活版製
造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊乎
技嘗創九波因活字問諸世於癸卯大阪博覧會九波因
行乎世昉于此也大正二年官賜藍綬褒章賞焉更又慨
活字字軆紛亂如决決諮衆定之又省略點劃以論評可
読不可読其致力不啻於活版術也終任国語調査会委
員焉十二秊會關東地震災起活版所帰烏有氏日夜黽
勉圖厥復興胡天也不假年俄然病歿大正十四年四月
二十三日也特旨叙正七位 文学博士遠藤隆吉記
昭和五年六月上浣        堀 進二作像
                亀田雲鵬 書


以下いちおう読んでみたのですが、いろいろあやしいところがあるかと思います。ご批正賜りたく。

君諱宗十郎安政四秊五月四日生于長崎薩摩屋敷服部氏出嗣野邨氏

君諱宗十郎安政四年五月四日長崎薩摩屋敷服部氏に生る。出でて野邨氏を嗣ぐ。

少入新街新塾受活版術于昌造本木翁

わかきとき新街新塾に入りて活版術を昌造本木しょうぞうもとき翁に受く。
本木昌造 - Wikipedia。新街新塾はその塾。

明治六年入東京大學豫備門以病退十二年任大蔵省銀行局員尋轉主計局

明治六年東京大学予備門に入るも病を以て退く。十二年大蔵省銀行局員に任ず。いで主計局に転ず。

二十二年辭官入築地活版製造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊乎技

二十二年官を辞し築地活版製造所に入る。四十年社長を奉ず。君の社に在るや晨に起き、夜に寝、社務を看、技に遊ぶ。

嘗創九波因活字問諸世於癸卯大阪博覧會九波因行乎世昉于此也

九波因9ポイント活字をためし創りて、癸卯大阪博覧会に於いて世に問ふ。九波因世に行われること此にはじまるなり。
嘗はかつてよりは試すの方がいいかなと。また諸は前置詞と解釈しました。癸卯大阪博覧會は1903年明治36年)の第5回内国勧業博覧会

大正二年官賜藍綬褒章賞焉

大正二年官は藍綬褒章賞を賜ふ。
ちょっと自信ありません。賜ふ主体が官でいいのかとか、賞は余計な気がするとか。

更又慨活字字軆紛亂如决決諮衆定之又省略點劃以論評可読不可読其致力不啻於活版術也終任国語調査会委員焉

更に又た活字字体の紛乱決決の如きを慨し、衆に諮りて之を定む。又た点画を省略し、以て可読不可読を論評す。其の力を致すや啻だ活版術においてのみにあらざるなり。終いに国語調査会委員に任ず。
活字字体の紛乱を決決と形容すること手許の中型辞書を引く限りではしっくりこない感じがあります。点画を省略し云々も判然としませんが、これは野村さんの事跡を調べればわかるでしょうか。

十二秊會關東地震災起活版所帰烏有氏日夜黽勉圖厥復興

十二年関東地震災起こるに会ひ、活版所は烏有に帰す。氏日夜黽勉びんべんの復興を図る。
墓碑史蹟研究では當としていたところ、字体事典を確認しても似ている字体を見つけられず。ほかにいろいろ見た結果、會がいいかなと思いましたがいかがでしょうか。
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胡天也不假年俄然病歿大正十四年四月二十三日也特旨叙正七位

なんぞ天や年を仮らざる。俄然病歿。大正十四年四月二十三日也。特旨により正七位に叙す。
天不仮年という成語があるようです。天不假年_百度百科。寿命不長を指すとのこと、短命を嘆く意でしょうか。

文学博士遠藤隆吉記 昭和五年六月上浣 堀進二作像 亀田雲鵬書

上浣は上旬。