伊予切下帖の成り立ちについて

伊予切と呼ばれる和漢朗詠集の写本があります。11世紀後半の書写と推定され、冊子本(原装粘葉装)上下2帖が完存していましたが、1924年に題ごとに切断分割されました。数多く残っているので所蔵する美術館も多く、比較的よく見かける古筆です。

この伊予切には、3つの筆跡が認められ、第一種・第二種・第三種と呼び分けられています。いずれも高野切第三種系統で類似しており、中には一種と二種は同筆であるという説もありますが、今回それは関係ないので置いておきます。また料紙は2種類に別れます。1つは飛雲紙に雲母砂子を撒いたもの。飛雲は片面のみに漉き掛けられているので裏面は白紙ですが、雲母砂子は撒いています。もう1つは素紙、なんの装飾もありません。この2種類の料紙と3種類の筆跡の間には厳密な対応関係があります。一種と二種は雲母砂子撒き飛雲紙、三種は素紙。例外はありません。

この二種と三種(または写本の二種の部分と三種の部分)の関係について、野中直之さんは、三種部分は二種部分の模写であろうと推定されています。「伊予切の装丁および使用字母に関する一考察」(PDF)によると、使用された字母の調査から、伊予切の全3種の筆跡は似た傾向を示すが、二種三種は特に類似した傾向を示し、一種は少し離れるという結果が出たそうです。二種とは別手の三種が自由に書いたのであれば、使用字母に関して両者はもう少し異なった傾向を示したでしょう。二種によって書かれた原本(亡失)を模写したから、字形も字母の使用傾向も似ているのだろうというのがその根拠です。妥当な推論ではないでしょうか。以下、これを正しいと仮定して進めていきます。

次に、この筆跡と料紙が伊予切本のなかでどのように分布しているのかを見ていこうと思います。上帖についてはわかりやすい。34丁表の秋夜235までが一種で、34丁裏の秋夜236からは二種です。なぜここで筆者が変わったのかについては謎ですが、この件についても今回は不問とします。当然ながら一種と二種のみの上帖はすべて雲母砂子撒きの飛雲紙。一方、下帖の方はちょっと複雑なんですよね。二種と三種だけ(一種なし)なんですが、上帖とは異なり前後半で分かれいるわけではありません。次のとおり5つの部分に分かれます。なお、これは歌番号順に並べたものであり、切断される前に綴じられていた順とは限らない点に注意いただければと思います。その時にどのような姿であってのかについては、まだ調べがついていません。

A 三種 目次、394から528まで   素紙
B 二種 529から543途中まで 2丁 飛雲
C 三種 543途中から588まで 6丁 素紙
D 二種 589から618まで 4丁 飛雲
E 三種 619から804まで   素紙

二種であるBDについては赤字にしました(以下継続)。手許の資料ではAとEの丁数はわからなかったのですが、下帖は全部で墨付き53丁です。とすればAE合わせて41丁、Cを含めた三種部分すべてでは47丁、かたや二種部分BDは6丁のみ。下帖は三種が主で、二種はごく一部であるということになります。このことは後で出てきますので頭の片隅に置いといてください。

さて、三種部分ACEについては模写本であるという仮定をしました。その上で、この下帖の分布を見ると、なぜこのような入り組んだ形で原本部分と模写本部分が残ったのかについて疑問に思うわけです(もちろん、模写と想定しなくても謎です)。この点について、同じく三種部分模写本説をとる小松茂美さんは次のように説明されています(上掲野中さんの論文からの孫引き、古筆学大成13です。また以下、小松さんの説はすべてこの論文から読み取ったもの。)

伝世の途次において、下巻の方は、六丁分を残して、大半を亡失してしまった。そこで、たまたま伝存していた模写本によって、該当部分を補った

以下、ACEの元となった亡失した原本については、二種なので赤字でACEと表記します。小松さんは、原本のうちACEが亡失し、「たまたま伝存していた模写本」でその亡失部分を補ったと仰っているわけです。「たまたま伝存していた模写本」というのが気になりますが、それは後にまわしまして、ACEの亡失について考えていきましょう。原装は粘葉装です。ですから、AEの亡失については理解はできます。しかし、中にあるCがいかにして亡失したのかについては難しいですよね。不自然な感じがします。

このCの亡失について小松さんは一説を出しているのですが、それを理解するには1つの非常に興味深い事実を知る必要があります。伊予切が1924年に切断される時、その装丁は列帖装(綴葉装)だったという事実です。既述の通り、伊予切の原装は粘葉装です。これは現存品に残る糊痕から明白。しかし、それがある時点で列帖装に改装されたのです。不思議な感じもあり、手法も謎ですが*1、ともかく切断される前は列帖装でした。

小松さんは、このCの亡失は列帖装に改装された後に起きた出来事だろうとしています。複製本から察するに、伊予切本は1括(折帖)が6枚12丁の列帖装だったらしい。そのうち上に重ねた2枚4丁(○)とその下の2枚の右側2丁(△)の合わせて6丁が落ちたのだろうと。この点については、論文に転載された小松さんの解説を図と見比べながら読んでいただかないと理解は難しいかと思います。ただ、理解しなくても以下読み進めていくのに大きな問題はありません。

この小松さんの説について、野中さんは疑問を投げかけます。△の2丁の抜け方に無理があるのではないかと。この点について、私は全面的に賛成します。小松さんの説は受け入れがたい。そして、野中さんはCが抜けたのは粘葉装の時だと主張されます。この点についても、賛成です。しかし、不満がある。説明が不十分でしょう。

そもそも、小松さんがなぜこのような説を立てたのか。これは推測に過ぎませんが、おそらく粘葉装の状態でCが抜けるというのが不自然で説明しづらいからというのが前提にあるのだと思います。そこで列帖装改装以後の亡失と理解した。ですから、粘葉装の時点でCが亡失したと主張するなら、この点についてしっかりと説得力のある説明がなされなければならないと思います。

ならばお前は説明できるのかと問われるでしょう。できます。単純なことなんですよ。むしろ、なぜこのことが想定されなかったのか不思議ですらあります。Cの脱落は、不自然である、自然ではない。ならば人為だと考えればよいのです。

粘葉装の冊子本で途中が抜けた遺例。たとえば本願寺本三十六人家集の順集があります。本願寺所蔵の国宝三十六人家集のうちの順集は、中の20丁足らずが抜けています。抜けた部分の一部は糟色紙や岡寺切として現存していることから、それは人為的に切断されたものと推定されるのです。また錯簡脱落甚だしいので読み取りづらいものの、元暦校本万葉集の古河本と高松宮本の分割手法は、前後に割っているものもある一方、巻10・12あたりは中から抜いていると思われます。というように、粘葉装であっても前後だけでなく間に挟まれた中央部分が抜けるというのは、人為的なものだと考えればなんの不思議もなく、実際に遺品が存在するのです。

さて、私は今までCがどのように抜けたのかについて触れ、人為的に抜き取ったものだと考えれば不自然ではないと指摘しました。しかし、これでは足りないんですよね。実際に考えるべきなのはもっと範囲が広い。つまりABCDEからACEが亡失したということについて考えなければならないのです。それについてはいく通りかを想定することができます。ACEともに同時に人為的に切断された。AEは汚損などによって亡失し、Cは切断されたなど。それらが同時なのか否か、同じ理由なのか否かでいろいろと考えることができます。

しかし、私は思うのです。ここで必要なのは発想の転換ではなかろうかと。先述したように、伊予切の下帖は三種が主で二種はごく一部なのです。丁数にして47と6。BDは合わせて僅かに11.3%に過ぎません。ACEは88.7%です。その模写本の原本であることより同数と考えられるACEも47丁で、原本の88.7%を占めるわけです。BDが現存するから、自然とそれらを軸に今まで考えてきたわけですが、むしろ分量的にはACEを軸に考えるべきなのではないでしょうか。つまり、原本からACEが亡失したのではなく、BDこそが原本から抜けたのだと。

ついでにもう1つ考えを変えてみましょう。繰り返すように、下帖は模写である三種部分が主であり、二種部分は僅かなのです。ならば、この二種を無視してみてはどうでしょうか。すると、この下帖自体が模写本であると見なすことができるわけです。そう考えると、原本である上帖と模写本である下帖がセットで伝来したということになります。

まとめましょう。原本である上帖と模写本である下帖がセットで伝来しました。模写本のなかに綴じられた僅か6丁分を除いて下帖の原本はすべて亡失しています。この6丁は原本から人為的に抜かれたものだと想定できます。これらを踏まえると次のようなストーリーを描くことができます。

もともと原本上下帖がセットで伝来したが、下帖を人に譲ることになった。その際に、下帖の模写本を製作して手許に残し、原本から6丁分を抜き取って模写本の一部に組み込んだ。6丁抜き取られた下帖原本は、冊子本の状態のまま譲渡先で亡失したため1葉も現存していない。

いかがでしょうか。自分としては、わりと上手く説明できているように思います。下帖の成り立ちに関する小松さんの推定を再び引用してみましょう。

伝世の途次において、下巻の方は、六丁分を残して、大半を亡失していしまった。そこで、たまたま伝存していた模写本によって、該当部分を補った

「六丁分を残して、大半を亡失」、「たまたま伝存していた模写本」の2点が疑問なわけです。それに対して、前者については6丁を抜き取った後で冊子の状態で亡失した、後者については譲渡する際に手許に置くために模写本を作成したと私は解釈したわけです。自分で言うのもなんですが、自説の方が合理的であるように思います。小松さんの説は、ちょっと無理があるのではないかと。

しかし、実は私の説には重大な欠陥があるのです。譲渡する際に忠実な模写本(料紙は模していませんが、筆跡はかなり忠実であると言っていいでしょう)を製作し手許に残すという行為は、それほど時代を遡らさせることはできないと思います。おそらく、江戸時代に入ってからではないでしょうか。つまり、三種部分の書写年代は江戸時代であろうと私は想定しているわけですが、これが通説とはまったく乖離しているんですね。

三種の書写年代は一般的に平安時代と言われています。模写本説を採らず、一二種とともに同時期に手分けして書かれたものだと主張する方もいます。模写本説を採っている人でも、平安時代後期12世紀と推定する方が多いでしょうか。模写だとすれば筆跡からの推定というのは難しくなるでしょうけど、紙の時代をそこまで間違えることは考えにくいので、やはりある程度古いものではないかと思います。しかも、伊予切には鎌倉時代室町時代と推定される朱点が打たれています。これが三種の部分にもあるんですよね。もちろんこれを含めて模したとも考えられますが、書写年代をその前に置くほうが自然でしょうか。

というわけで、問題はあるのですが、捨てるには惜しい説ですし、可能性はあると思いますので、ここに書き記しておきます。

以下余談。

その1。伊予切は粘葉装から列帖装(綴葉装)に改装されました。これについて野中さんは次のように仰っています。

しかし稿者は、伊予切のような粘葉装から綴葉装への改装の例をほかに聞いたことはなく、非常に稀有な例であろう。

私は2例聞いたことがあります。催馬楽譜(鍋島報效会蔵、国宝)と法華経冊子(京博蔵(野村家旧蔵)、重文)です。どこでこの改装の件を読んだのか記憶にないのですが、とりあえずここでは古筆大辞典の該当項を引いておきましょう。なお、この辞典は列帖装(綴葉装)のことを胡蝶装と表現しており注意が必要です。

催馬楽譜(p555)

胡蝶装の冊子本。もとは粘葉装であった。

下絵経冊子(p622)

もと粘葉装であったが、現在は胡蝶装になっている。そのため「涌出品」に錯簡を生じている。

その2。前回の記事のア行ヤ行の「え」の話に関連して。野中さんの論文では使用字母が調査されています。対象は伊予切全3種に加え、高野切全3種、および高野切三種系統の粘葉朗詠、近衛朗詠、法輪寺切。p83の表の「え」の部分を見て下さい。「要」は高野切第一種の2例のみ、「江」は高野切第三種の1例のみで、他はすべて「衣」すなわちア行の仮名が使われているのです。一方、言葉として出てくるのはヤ行の方が多い。これは調べる必要がないくらい自明のことです。「見ゆ」「越ゆ」「消ゆ」などのヤ行動詞や名詞の「枝」「江」はヤ行で、「え」としてはこれらが頻出するので。つまり高野切の3人の筆者(含む第三種系統の筆者)はア行ヤ行の「え」の区別が全くできていないのです。一方、前回の記事に見たとおり、関戸古今ではヤ行である「要」字が主に使われているため、ア行ヤ行の区別では正解率が高い。これは単に関戸古今の筆者が「え」を書く時に「要」を使うのを好んだだけかもしれませんが、やはり古さを感じさせるんですよね。10世紀半ば以前に書かれた写本を直接にまたはあまり間を置かずに書かれたから、その用字の影響を受けたとも考えられます。またア行ヤ行の別が行われていた頃は当然ヤ行の仮名が多く用いていたわけで、それから時代も離れていないため、そのままヤ行の仮名が広く使われていたとも考えられます。いずれにしても、書写年代は古いということになるでしょう。つまり、関戸古今は高野切よりももっと前、ひょっとしたら西暦1000年頃まで遡る可能性もあるのではないかと個人的には思っております。

*1:別紙を用意して、そこに折目で切断し相剥ぎした原本を貼り付けた上で綴じる?