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奈良時代の「冊子」

杉本一樹さんの「正倉院の古文書」(『日本の美術』440号、至文堂、2003年、NDLサーチ)72ページに、興味深い形態の正倉院文書の写真が掲載されていました。なお図版の転載はしません。

この文書は継紙ではなく、冊子状に束ねて綴じています(綴じは左側)。奈良時代に冊子本に類するものがあって、しかもそれが残っていたのかとちょっとびっくりしました。

キャプション。

第123図 千部法花経充紙筆墨帳(乙 続々修 第三六帙第一冊)横帳形式の帳簿を広げた姿。

「横帳」または「長帳綴」とは、一般に紙を横長に半分に折って折目を下にして重ねて右端で綴じたものを指しますが、これは写真を見る限りでは紙を折っていないので「単葉装」に分類するほうがいいような気がします。ただし、いずれにせよ左綴じというのは特徴的でしょう。

関連する本文を見ると、

以上みたように、分節化した個々の仕事一つひとつに対応する文書を用意するのが原則である。その際にはファイリングシステムの構築(横とじの帳面〈第123*1図〉〔継文の作成、折本状の加工(第101図)〕や見出しの取り付け〔題箋軸〈第124図〉の使用、見出し紙の貼り付け〕、品物の移動の後に残す留守番札の使用〔雑札=木簡〕(第125図)など、さまざまな工夫も忘れない。

いまひとつ綴じのことが分からない。

というわけで、調べてみると、同じく杉本さんが「端継・式敷・裹紙-正倉院文書調査報告三題-」(『正倉院年報(正倉院紀要)』13号、宮内庁正倉院事務所、1991年、PDF)で、本冊について詳しく紹介されています。

先に言うと、残念ながら現状は明治時代に改装を受けているものでした。しかし、当初も同様に横長左綴じの単葉装であったことは間違いないようです。

 右の報告と同じ年度に、続々修第三十六帙第一冊の調査を行った。同冊はいわゆる「千部法華経料紙筆墨充帳(乙)」で(十384~435)、天平二十年正月に始まる法華経千部八千巻の書写事業において、経師に支給した筆・墨・紙の数量を記した帳簿の第二冊に当たる。
 この前に内容上連続する帳簿は、折本状の形態を持つことで注目されている「千部法華経料紙筆墨充帳(甲)」で、これについては土田直鎮氏に原本調査報告に基づく詳細な論考がある。事情が許せば土田論文の顰みに倣って、紙充帳(乙。以下土田論文にならってこの略称を用いる)の調査報告を行いたいところであるが、煩雑となる恐れがあるので、ここでは、論点を絞って述べて行こう。
 調査に先立っては、取扱う際の安全を期して、あらかじめ明治時代の整理による綴じを一たんはずして、必要と思われる繕いを施したが、この状態は、一枚ずつ詳細な観察が可能なまたとない機会であった。
 ア、外形上の特徴
 本冊は、現在、本紙五十六張を重ね合わせ、その上に重ねた続々修の表紙ともども、左端二箇所の紙縒りで綴じ付けた横帳形式をとっている。この綴じが新しいもので(明治整理期)、これとは別に毎紙左端に小さな円形の穴と、小刀で切ったような縦長の切れ目とが、天地に残っていることは、土田論文がすでに指摘するところであるが、今回この旧綴目の全容が明らかになった。
 まず、旧綴目に注目して全体を通観すると、五十六張全てを一度で貫く綴目は存在しないことがわかった。逆に、料紙についたシミの形や、重ねたときの料紙の位置関係を勘案して、三つのグループ(および帰属不明の数枚)が抽出可能である。

A…第2~22、24、26~28、31、32の各紙
 天平二十一年正月~四月に始まる記載を持つ一群。ほぼ共通の紙質・界線の規格をもつ。綴じ穴は数種類(多いもので六組以上)ある。
B…第35~49紙
 天平勝宝二年正月~二月に始まる。綴じ穴は少ない(二組が標準)。
C…第50~56紙
 天平勝宝二年三月以降に使用開始。紙質はまちまち。
D…第1、23、25、29、30、33、34紙
 帰属不明

 つぎに各グループごとに旧綴目を目安として紙を重ねてみると、かつては小口、すなわち紙の右端で揃えて綴じられていたことがわかる。現状の左端揃えでは、紙の長短にしたがって、右端に記された経師名に出入りが生じて見にくいが、この問題はごく自然な形で解決されているわけである。
 ところが、この小口揃えという方法には別の問題がある。それは横の長さの短い紙が混じる場合、帳簿の面(頁)の有効面積が、その短い紙に規制されてしまうという点である。本冊中で髪の長さがもっとも短いのは、第45紙(岡大津)の三八・七糎であるが、この第45紙が含まれるB群の一頁はこの幅に揃うわけである。
 とはいうものの、B群が見るからに窮屈というわけではない。むしろ横幅がゆったりあるはずのA群のほうが、長さを持て余している節がある。
 A群の中で、裏に紙充帳の記載が及ぶところが三例(第3、9、21紙)ある。その箇所は、表では左端一杯までは書かれずに、約一五糎の余白を残して改頁し、裏でも、めくった頁の右(のど)いっぱいからではなく表と同様の空白をおいて書き始められている。つまり、紙に余裕があっても、帳簿自体の幅が余り広くなるのは不都合と考えられたのであろう。左端寄りの使わない部分は裏側に折り返しておかれたらしく、A群の二七枚を重ねて真横からみると、その際の折り目に由来すると思われる紙面の波打ちが残っている。

すなわち、左側に綴じ穴の痕跡があると。この痕跡は正倉院文書の伝来を考えると(その当時に幾度かの綴じ直しはあるにせよ)奈良時代の当初のものであるでしょう。現状と異なるのは、(所属不明を除き)3グループに分かれることと、現状は左端(綴じている側)で揃えていますが、当初は右端(小口)で揃えていたこと。

左綴じ小口揃えであることによって、右端に書かれている経師名が見やすくなって、記入する際に該当箇所を探しやすくなるという利点があったようです。

綴じ穴の大きさについては触れられていないので、細い糸を通していたのか、それとも紐や紙縒りなどで綴じていたと思われる大きさの穴なのかはわかりません。

最後に指摘されている「波打ち」は、冒頭に触れた「正倉院の古文書」掲載図版からも看取することができます。ちょうど裏の「空白をおいて書き始められたところ」が開かれていまして、前後の紙も合せてちょうどその部分に「波打ち」があります。

なお、「折本状の形態を持つことで注目されている「千部法華経料紙筆墨充帳(甲)」」は「正倉院の古文書」の引用中にある「折本状の加工(第101図)」にあたるものです。62ページに掲載された図版からは、折本状の形態を持つことは見取れませんけれども。

ともかく、奈良時代や平安初期までは、書物の装丁としては巻子装しかなかったのかもしれませんが、帳簿などでは単葉装や折本装に類するものがありました。また「三十帖冊子」から、少なくとも平安初期には粘葉装があったことが分かります。


以下余談。先日こんなツイートを拝見しました。

これを受けてのconsigliereさんのツイート。

実際に抜き書きや備忘録のようなものが存在したのか不明です。不明ですけれども、仮にあったとして、もしそれが存在したとしたならば、どういう形態をもつのかというのがちょっと気になったんですよね。

抄出しているのなら巻子装にしても原本よりは参照しやすいかもしれません。書物という意識が低ければ軸や表紙を付けず継紙のままにしているという可能性もあるでしょう。その継紙を蛇腹に折って折本状にしたかもしれません。また今回取り上げたような単葉装に類する方法で束ねていたかもしれませんし、粘葉装であったかもしれません。

実際に抜き書きや備忘録のようなものが存在したとしたら、以上挙げた装丁のうち1種類に限ったものではなく、いろいろなタイプがあったと考えるのがよさそうです。

なお、敦煌からそういう類のものと考えられる唐時代後期の粘葉装の白氏文集が出土しています。

山本信吉さんの『古典籍が語る : 書物の文化史』(八木書店、2004年、NDLサーチ)、60ページ。

 中国の現存する最古の粘葉装本は、おそらくフランス・パリ国立図書館のペリオ将来敦煌本のなかにある白楽天の『白氏文集』(一帖・番号二四九二号)であろう。以前訪問した節に、とくに閲覧する機会を与えられた。現存枚数一一丁のやや小形の残簡本で、本文は半葉八行に書写されている。唐時代後期の筆と認められる無雑作な手控えノート風のもので、当時粘葉装本が敦煌の地にも普及していたことを示している。

ちなみにこれ。

gallica.bnf.fr

*1:「128」と誤植。訂正して引用します。