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嘉禄版大般若経( 『寧楽刊経史』より)

東博の古筆・古写経展示(2015年7月) - ときかぬ記」の「春日版大般若経 巻第九」で

キャプションには「嘉禄年間(1225~27)刊行の『大般若経』は、漆黒の墨色が鮮やかである」とあるので、嘉禄年間に刷られたもののようですね。どうやって刊年を特定したのだろう?

と書きましたが、春日版の大般若経は嘉禄ごろに開板された「嘉禄版大般若経」として有名なもののようですね。後日、大屋徳城『寧楽刊経史』の該当箇所を繰っていたら気づきました。その部分引用しておきます。

 南都に於ける密部の開版は寥々として擧ぐるに足らずと強も、中に東密系統の理趣経や即身成佛義等の存するあるに由り、単に平安朝以後の東密の浸潤を以て一切を解釋せんとするは早計なり。南都の密教は遠く奈良朝に發し、空海以前善無畏渡來して、之を傳ふと稱すれども、固より史實として肯んず可きにあらず。されど、罪や穢れを悔悟し、福祉壽命を增益するの信仰は奈良朝既に盛んにして、持呪修法、必ずしも、台東兩密に待ちしに非ず。斯る思想の中に、大般若經(法相の大祖玄奘所翻の因縁も少分有之らん)が興福寺にて開版せらるゝ機運に向ひ、理趣經が東大寺に開版せられ、次の時代に入りては其の傾向頗る顕著となれるに至れり。
 奈良に於ける大般若經崇拜の歴史を物語るものは、諸大寺並に其の鎭守たる神社に書寫若くは摺本の大般若經の奉納せられし風習の起こりこと之れなり。東大、興福の大伽藍を始め、春日社、手向山八幡宮東大寺の鎭守)藥師寺八幡宮(藥師寺の鎭守)等の大般若經は多く散逸したりと雖も、而も寫本の大般若經にして「東大寺八幡宮」若くは「藥師寺八幡宮」の黑印を押捺せるもの、好事家の手に收藏せらるゝもの今尚乏からず。
 文治二年二月、俊乘房重源伊勢大神宮に參籠して、大佛殿再興の祈願を爲し、東大寺の大衆二部の大般若經を書寫して、同四月内外宮に各一部を奉納し、降て正嘉二年二月、北條時頼自筆の紺紙金字の大般若經一部六百卷を奉納して、國家の安穩を祈りしは、史上に有名なる事實にして、鎌倉以後、足利時代に及びては、此の風習全國に瀰漫し、諸寺諸社にして、諸寫若くは摺本の大般若經を奉納して、神慮を慰め、法樂に供へざるものなきに至れり。
(中略)
 斯くの如き傳統思想を有する奈良佛教が、此の時代に入りて、悔悟増益の一大聖典たる大般若經を開版するに至りしは誠に自然の趨向なりといはざる可からず。而して、一部六百巻、春日版中前後最大の部帙を有する開版なるは又注目に値す。此の一大盛擧は嘉禄年間に完成したるを以て、世に嘉禄版大般若經と稱す。
 此の大業は着手の年月明かならずと雖も、恐らくは貞應元年か二年に着手して、嘉禄三年に完成せしなるべく、五年若くは六年を費しゝならん。六百卷中五卷 卷第三十四、三十五、四十六、五十三、一百 に年號を有する刊記あり。而して、卷第三十四は嘉禄三年二月、卷第三十五は嘉禄二年二月、卷第四十六は嘉禄元年九月、卷第五十三は貞應二年三月の記あれば、卷を逐はずして任意に隨處を彫造せしことを知る。今刊記を年號順に左に收載す可し。
(卷第五十三)
  奉爲慶圓上人滅罪生善彫刻當卷資彼菩提矣
     貞應二年三月二十九日  佛子貞榮
(卷第四十六)
  相當沙彌政阿彌陀佛十三年周忌
  奉彫供養親父安陪時資
     嘉禄元年 乙酉 九月一日
(卷第三十五)
  爲先考寺僧晴範十三年報恩 奉彫之
     嘉禄二年 丙戌 二月三日 榮豪等
(卷第三十四)
  爲先師成遍出離解脱門弟合力敬奉彫當卷摸畢
     于時嘉禄三年 丁亥 二月九日 釋永全記之
(卷第一百)
  願以此善普及自他生々世々開發智慧修學佛法展轉教
  授爲世燈明五十七億六萬歳間見佛聞法因縁純熟大
  聖慈尊成道之時親近奉仕發菩提心塵刹之中修習
  般者四恩法界同證佛道
     嘉禄三年 丁亥 三月廿六日當慈父一週忌辰奉
      彫當卷畢        釋範眞敬白
卷第五百九十八には年號を闕くと雖も、左の刊記あり。
  願此刻彫 功徳善根 三寶哀愍 隨逐護念
  身心無病 諸根明利 恒利勇猛 修習六度
  念念增進 速至不退 決定當證 無上菩提
                 僧猷賢
以上の刊記に依りて考ふるに、各卷緑を募り、縁成るに從ひ、喜捨人の希望の其の卷より彫刻し又其の願意をも刻せしことを知る可し。

国立国会図書館デジタルコレクション - 寧楽刊経史. [本編]

当時奈良では大般若経書写ブームがあって、それを受けて出版されたということだそうです。その写経の例として、東博で隣に展示されていた東大寺八幡宮経、また中略で飛ばしていますが、最近根津美術館で巻を替え替え展示し続けている浄阿一筆の春日若宮大般若経などが挙げられています。