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旧十輪院宝蔵と魚養経

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東京国立博物館の構内に建つ旧十輪院宝蔵。博物館いわく法隆寺宝物館の脇にあるとのことですが、むしろ表慶館の裏手、人の立ち寄らない寂しい場所にひっそりと佇んでいるといった感じです。屋外に露出して展示しているので、あえて人目につきにくいところを選んだのでしょうか。

もともと奈良市十輪院にあった宝蔵(経蔵)、校倉造りの小ぶりな倉で、大般若経600巻が収められていたと考えられています。関東に現存する建築物では最古のものとも。

案内板は次の通り。

十輪院宝蔵
この校倉は、もと奈良・十輪院境内にあったもので、明治15年3月、当館に移建された。間口、奥行きとも1.8メートル、高さ4.2メートル、宝形造の建物で校倉としては、最も小さい。内部の壁には、釈迦十六善神像が描かれており、大般若経の経蔵として作られたことがわかる。軒は、棰木を用いず、板軒になっており、また建物四方の腰に十六善神を線彫した石をはめているのも珍しい。昭和28年8月、重要文化財に指定。*1

また、宝蔵前に建つ石碑も写しておきます。

   校倉記
此のあせくらは大和國奈良元興寺の別院なる
十輪院の境内にありしを明治十五年五月博物館に
移せりそも/\此のこときちひさき倉を造りたるは
大般若經壱部六百巻を藏めむためにつくりたる
ものならむしかいふ故は平城坊目愚盲考に十輪
院は真言宗なり傳云弘法大師開基にてその
經蔵の扉の南面は四天王の像床下の石臺は
十六善神を彫むとみえたるにて大般若の經藏
なることのしらるれはなり此の倉風火の災を
のかれて今に存せることまことに希有のものなり
然るを本寺衰へて修理することあたはすゆゑに
こゝに移して舊物を保存し且往古の建築の
方法をしめす
   明治十六年六月  博物館
              廣群鶴鐫

案内板と石碑で移築の月が3月・5月と異なる理由は分かりません。

「建物四方の腰に十六善神を線彫した石」のうち1枚の写真が東博のサイトで見れます。

宝蔵は柵で囲われていて近づけないので、現地ではここまではっきりとは見えません。また内部は公開していませんが、十輪院のサイトに内部壁画の写真が掲載されています。

この宝蔵は、1882年に十輪院より博物館に移築されてから、そのままそこに存在するというものではないそうです。「重要文化財十輪院宝蔵修理工事報告書」*2によると、当初は本館*3北の裏庭にある池に南面するように移築、後に覆屋を設けて保存したとのこと。第二次大戦中は保存のために岩手県二戸郡浄法寺町疎開(1945年春から翌年秋まで)、博物館に戻ってからは地下倉庫に格納されていました。1953年8月重要文化財指定、翌54年から55年にかけて復旧修理を行っていますが、その時旧来の本館北では保存・公開上不便だとのことで場所を移しています。ただ、この場所も現在とは異なるところで、本館東、現在東洋館隣のレストランがあるあたりだったそうです。その後いまの表慶館裏に移された時期と経緯は調べがつきませんでしたが、68年開館の東洋館建設に関わるものでしょうか。

石碑に見える「平城坊目愚盲考」は「平城坊目考」だと思われます。国会図書館デジタルコレクションで明治時代に出版された活字版が読めます。

また、村井古道の「奈良坊目拙解」(享保15年自序)には、(「修理工事報告書」からの孫引き)「経蔵一宇四天王形像扉にあり、また石面十六善神像経蔵下段にあり」とのこと。この「経蔵」とは即ち件の「旧十輪院宝蔵」。また古老曰くとして「永禄天正中兵士悪徒等乱妨し、経論を奪って兵具等を縛す縄としたために古書経巻悉く失われ、経蔵のみ空虚に存す」とあります。

なお、奈良をもっとよく知ろう会というブログで「奈良坊目拙解」の十輪院町の項を2回にわたって取り上げております。残念ながら経蔵(宝蔵)については触れられていませんが、「永禄天正中兵士悪徒等乱妨」は三好氏と松永氏による東大寺大仏殿の戦いと推定されています。

「修理工事報告書」には十輪院についても詳しく書かれており、それをまとめると

  • 寺の創建沿革については詳細不明。近世の縁起書などによれば元正天皇勅願、朝野魚養開基。
  • 元興寺の一院だったと言われているが、その点についても詳細不明。現在のように真言宗醍醐寺派に属するようになったのも、相当古い時期からか。
  • 宝蔵および本堂、南門などすべてが鎌倉時代中期の形式で建立年次が近接していると思われるので、その頃中興されたか。
  • 寛政12年(1800)の十輪院古図によれば、宝蔵は本堂前東寄りに現存する苑池の西面に護摩堂と相対して建っていた。
  • 天正年間に秀長が大和に入国してから寺領を没収され、また兵乱にあって宝蔵の古書経巻類を奪われるなどして、ひどく荒廃。
  • 江戸時代に入り徳川氏の庇護もあり、ある程度の復興を遂げるが、明治維新には寺領を奪われ大きな打撃を受けた。

「宝蔵の古書経巻類を奪われる」というのは「報告書」の表現をそのまま借りたものですが、前後の文脈からして「宝蔵」は現在東博にある旧十輪院宝蔵を指しているように読めます。もちろん「奈良坊目拙解」の「古書経巻悉く失われ、経蔵のみ空虚に存す」を踏まえてのものでしょう。

さて、ここで十輪院による当該宝蔵についての解説を引用します。

この宝蔵には当山開基とされる朝野魚養の筆になる大般若経六百巻(天平時代)が納められていました。
大般若経は明治時代の廃仏毀釈のとき奈良・薬師寺の所有となり、その後、奈良国立博物館藤田美術館などにも分蔵されることになりました。
一般には「魚養経」といわれ、一部は国宝に指定されています。

寺宝と拝観|旧十輪院宝蔵|南都 十輪院 webサイト

すなわち、この宝蔵(経蔵)に納められていた大般若経は「魚養経(薬師寺経)」であること、その「魚養経」は十輪院伝来で、明治時代に薬師寺に入ったとしていますが、この主張にはかなり疑問があります。

ひとつは「奈良坊目拙解」の「古書経巻悉く失われ、経蔵のみ空虚に存す」から、享保頃には経蔵は空だったと思われること。

またさらに次のブログ記事が参考になります。

要約すると、天文3年(1534)に薬師寺で作られた経櫃が残っていること、また寛政4年(1792)に屋代弘賢が薬師寺でこの魚養経と思われるものを見ていることから、少なくとも明治時代まで十輪院に伝わったという説はほぼ否定でき、さらに

そもそも魚養経は一度も十輪院にあったことはなく、朝野魚養が開基と伝わる十輪院大般若経を納めるための経蔵が存在するという事実と、魚養筆とされる大般若経が存在しているという事実が安易に結び付けられた訛伝

ではないかと結論づけています。

この記事では挙げられていませんが、魚養経がすでに室町時代後期には薬師寺にあったと推定できる根拠がもうひとつあります。それは魚養経の表紙の外題部に捺された「薬師寺印」朱円印です。

野尻忠さんの「藤田美術館薬師寺ほか所蔵の大般若経(魚養経)について」*4によると、

現状の表紙は、後補も含め数種類あるが、濃褐色を呈し外題部に朱円印の捺されるものが最も古く、先行研究はこれを原装と断定している。藤田美術館所蔵分のうち四十三パーセントにあたる百六十五巻がこの表紙である。外題部の朱円印は、魚養経全巻の巻頭首題部に捺された印と同じものであり、両者は同時の捺印と考えられる。このタイプ以外の表紙には朱円印がなく、捺印されて以降の時代に付け替えられたものとわかる。

この朱円印とは「薬師寺印」の印文を持つ円形陽刻の朱印です。原表紙と思われる古い表紙には外題のところにこの印が捺され、後世に改装された表紙には捺されていません。ということは、印が捺されたのは改装以前であり、その時すでに薬師寺にあったということになります。

改装された表紙はいくつかのタイプがありますが、もっとも古い(かつ数も多い)のは室町時代と推定されているものです。ネット上では原表紙の画像は見つかりませんでしたが、この室町時代改装とみられる表紙の画像はありましたのでリンクを貼っておきます。

国立国会図書館月報608号の「新たな貴重書のご紹介」(PDF)に「国立国会図書館の所蔵する巻11は、表紙は室町時代後期に補われたものとみられますが、元の軸首を残し、欠丁もなくよい状態です。」と紹介されています。

野尻忠さんの「藤田美術館所蔵『大般若経』(魚養経)の調査研究」*5によると、巻第一から巻第二百および巻第三百一から巻第四百のうち、現存するものはほぼすべてこの室町時代の表紙になっているそうです*6。ある時期の修理の際に一斉に付け替えられたのだろうとのこと。

これは私の推測ですが、ひょっとしたら天文3年(1534)に経櫃が新造されていることと、室町時代に大規模な修理が行われていることは関連しているのかもしれません。つまり、この表紙付け替えの修理は1534年頃という可能性もあるのではないでしょうか。

大山仁快さんは「薬師寺経(大般若経)について」*7において、経櫃が新造された天文3年頃に、この魚養経は薬師寺へ納入されたのではないかと推測しています。京都・円福寺に蔵される大般若経*8は、魚養経と同様に「薬師寺印」の朱円印と「薬師寺金堂」の黒印が捺されていることから薬師寺旧蔵品であること、また巻第六百に附された奥書から薬師寺流出は永正3年(1506)であることが判明します。その上で魚養経について、

おそらくこの天文三年ごろ、薬師寺へ先の大般若経の補塡のために納入されたものであろう。巻首及び表紙の「薬師寺印」の朱円印、巻首紙背の「薬師寺金堂」の黒印も、おそらくそのころおされたものと推測される。ではそれ以前、この薬師寺経はどこにあったのか。これについて田中塊堂氏は、奈良元興寺十輪院に伝わっていたものとされる。

このあと、大山さんはこの魚養経が十輪院にあったことを裏付ける根拠を述べようとしているのですが、この写経の伝称筆者が魚養であることと十輪院は魚養と関係が深いことを挙げる程度で、確たる証拠は出せていないんですよね。また、天文3年に朱印が捺されたとすると、室町時代の改装表紙に朱印がないことについて、説明できなくはないけど、ちょっと苦しいかなという気がします。

先に挙げた野尻さんの2文献では、十輪院については一切触れられていません。そして、前者(「藤田美術館薬師寺ほか所蔵の大般若経(魚養経)について」)の最後に非常に興味深いことを述べています。

 宝亀二年頃、僧侶が校正に参加する珍しい写経事業がおこなわれていたことは、すでに先学の指摘がある。宝亀二年奉写一切経校生僧等手実帳は、当時「先一部」と呼ばれていた一切経の書写事業に、校正担当として参加していた僧たちの同年正月から五月までの作業報告書であるが、ここにみられる僧は、魚養経の校正記に名を残す僧と非常によく一致する。このことから、少なくとも、この「先一部」一切経事業がおこなわれていた宝亀元年から同二年と極めて近い時期に、同じ組織によって大般若経(魚養経)が作成されたということは言えそうである。或いは、魚養経そのものが、この「先一部」一切経の中の大般若経に当たるという仮説すら立てられるかもしれない。

また、飯田剛彦さんは「聖語蔵経巻「神護景雲二年御願経」について」*9(PDF)で次のように言います。

五部一切経のうち、先一部と始二部のうちの一部が薬師寺に納められたことが、森明彦氏によって明らかにされている。

藤田美術館所蔵の魚養経(薬師寺伝来の大般若経)の調査を行った野尻忠氏は、同経の巻末紙背書入れにみえる校経僧の名が、先一部の校正手実(一八393~448)にみえる名の多くと重なることから、魚養経が宝亀元~二年頃に奉写一切経所で書写されたものであることを指摘し、一歩進んで、先一部の大般若経そのものである可能性についても示唆されている。先一部が薬師寺に納入されたものであれば、今回、聖護蔵経巻中でほぼ確認できなかったことも納得できる。

すなわち魚養経は、神護景雲4年5月から宝亀2年12月にかけて東大寺の「奉写一切経所」で作成され薬師寺に納入された「先一部」一切経と極めて近い時期に同じ組織によって作成されたものであり、ひょっとしたらその「先一部」のうちの大般若経そのものである可能性もあると。

というわけで、結局はっきりしたことはわからなかったのですが、今のところ旧十輪院宝蔵と魚養経は関係ないものなのかなあと思っております。

*1:柵内にもう1つ文字が剥げかけた案内板あり。寸法が「173センチメートル」「439センチメートル」となっている以外は同文です。

*2:重要文化財旧十輪院宝蔵修理工事報告書 (文化財保護委員会): 1964|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

*3:当時はジョサイア・コンドル設計の旧本館。現本館と場所は同じ。

*4:展覧会図録『天竺へ : 三蔵法師3万キロの旅』(NDL Search)所収

*5:湯山賢一、奈良国立博物館奈良時代仏教美術と東アジアの文化交流』(NDL Search)所収

*6:例外が2巻ありますが、それは再改装したと思われるもので、同じく朱印はありません。

*7:薬師寺経(大般若経)について--新指定国宝(昭和41年度)研究・紹介 : 1968-08-00|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

*8:文化遺産データベース

*9:聖語蔵経巻「神護景雲二年御願経」について : 2012-03|書誌詳細|国立国会図書館サーチ