読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鈍翁による翰墨城の改変について

書芸文化院が所蔵する空海筆「金剛般若経開題断簡」(4行)のうち前半2行は国宝手鑑「翰墨城」から剥がされたものですが、どこから剥がされたのかという記述が見つからず不明でした。それがほぼ検討がついたので記しておきます。

それは伝弘法大師「絵因果経切」のところに貼ってあったものだと思います。代わりに貼られた「絵因果経切」はおそらく国宝芸大本から切られた断簡です。

以下、詳細

鈍翁による「翰墨城」の改変について、『名画を切り、名器を継ぐ -美術に見る愛蔵のかたち-』(根津美術館、2014)には次のように書かれています。

 近代財界の大茶人である益田鈍翁(孝・一八四八~一九三八)が所蔵した時期に、空海の「金剛般若経開題断簡」(東京・書芸文化院・春敬記念書道文庫蔵)や伝寂蓮筆「大色紙」(個人蔵)などがはがされ、「石山切」や「伊予切」などが貼り込まれるなどの改変が行われた。

貼り込まれたと記述されているのは「石山切」と「伊予切」のふたつ。そのうち「石山切」は78番で三条公忠の断簡に挟まれています。

77 伝三条公忠 詩書切 白氏文集 巻三・五絃弾(和漢朗詠集 巻下・管弦) 32.8x5.8cm 南北朝時代
78 藤原公任 石山切 本願寺本三十六人家集 伊勢集 19.5x15.1cm 平安時代
79 伝三条公忠 後撰集 後撰和歌集 巻十九・離別・羇旅 24.8x16.1cm 南北朝時代

また「伊予切」は258番で寂蓮の断簡に挟まれています。

257 伝寂蓮 佐野切 治承二年賀茂社歌合 31.8x28.4cm 平安時代
258 藤原行成 伊予切 和漢朗詠集 巻上・春・藤 25.8x17.4cm 平安時代
259 伝寂蓮 田歌切 未詳 28.9x6.0cm 平安時代

剥がされたものとして挙げられているのが、空海の「金剛般若経開題断簡」と伝寂蓮筆「大色紙」であるならば、後者が剥がされたあとに「伊予切」が貼られたであろうことはまず間違いはないと思います。

問題は「金剛般若経開題断簡」をどこから剥がしたかです。貼ったのも剥がしたのも挙げられているのが2点づつなので、「金剛般若経開題断簡」とセットになるのは「石山切」と考えたいところですが、現在「石山切」が貼られているところは三条公忠の間であって、空海が貼られていたというのは奇妙なんですよね。

この「金剛般若経開題断簡」は、先述のように書芸文化院が所蔵しておりまして、『春敬の眼―珠玉の飯島春敬コレクション―』(名児耶明監修、2008)によると

本品は、益田鈍翁遺愛のMOA美術館の手鑑「翰墨城」に二行(図版の前半部分)があったもので、鈍翁がほかに入手した二行の断簡と併せて一幅としたもの。ただし文章は繋がらない。

と、もともと2行の断簡だったのですが、ほかの2行と併せて掛軸になっています。この図版にはその合わせた寸法が記載されており、それは27.2x13.5cm。剥がされた2行の断簡の寸法は、横寸を半分にした27.2x6.75cm程度でしょう。

「翰墨城」の複製本は、各断簡の写真をもとの手鑑通りにレイアウトするという風にデザインされています。筆者(伝称筆者)が書かれた小札は省略されていますし、また台紙自体が写されていないため、そこに残る痕跡の確認もできません。しかし、もとの通りのレイアウトなので、空白の有無は確認できるようになっています。それを見る限りでは、「翰墨城」には27.2x6.75cm程度の断簡を剥がしてそのままにしたような不自然な空白はありません。少なくとも空海の断簡が貼られた部分及びその前後には見出すことはできないのです。とすれば、「金剛般若経開題断簡」が剥がされた跡に、何か別の断簡が貼られたことは間違いがないと思います。

そこで、空海が貼られた部分とその前後について見てみましょう。

231 伝教大師 焼経切 大般若波羅蜜多経 23.2x5.0cm 奈良時代末期~平安時代初期
232 弘法大師 絵因果経切 過去現在因果経 27.0x7.1cm 奈良時代
233 弘法大師 草字切 未詳 29.0x7.5cm 平安時代
234 弘法大師 南院切 新撰類林抄 27.7x9.5cm 平安時代
235 弘法大師 草字切 未詳 28.5x15.7cm 平安時代
236 弘法大師 詩書切 王無功の詩 26.7x24.5cm 奈良時代
237 弘法大師 大日経開題切 大日経疏要文記 29.4x4.6cm 平安時代
238 弘法大師 仏書切 未詳 27.9x6.4cm 平安時代
239 伝慈覚大師 写経切 未詳 28.2x11.7cm 平安時代

寸法だけをみれば233の「草字切」や234の「南院切」も候補になりましょうが、やはり注目すべきは232の「絵因果経切」でしょう。寸法が1番近いというのもありますが、それ以上に、江戸時代の手鑑に「絵因果経切」が貼られているというのがもの凄い違和感がありますよね。少なくとも私は見たことがない。もちろんそれは単なる勉強不足の可能性があるわけですけれども、しかし何となく気になっておりました。ただ、複製本の解説は一般的な絵因果経の解説にとどまっていて、この断簡についての詳しい説明はなかったんですよね。というわけで、そのままうっちゃっていたのです。

進展があったのは、根津美術館で開かれた「名画を切り、名器を継ぐ」展を訪れた時のこと。吉田丹左衛門と益田鈍翁が作成した古写経手鑑「染紙帖」(五島美術館蔵)が出品されており、そこに貼られた「絵因果経切」に惹かれたことがきっかけでした。いい字だなあと思ったものの、手鑑展示のいつもの例で、この断簡についての詳しい説明はなく、鈍翁と絵因果経と言えばまず思い浮かぶのが益田本なので、益田本かなあなんて考えておりました。

しかし、ふと先日『久能寺経と古経楼』(五島美術館、1991)をめくってみたら、この「染紙帖」所収の「絵因果経切」が載っていたんですよね。結構気に入った断簡だったのでどこかに図版ないかなと探していたところ、既に持っていたというずいぶんと間抜けな話であります。しかも、そこには「絵因果経断簡(東京芸術大学本)」と書いていたんですよ。なぜか私は芸大本は完本だと錯覚していて除外していたのですが、切断されていたんですね。「染紙帖」の「絵因果経切」は巻第四の後半なので、巻第四上の益田本ではない、巻第四下の芸大本は完本だったよなあ、なんて困っていたのです。

さて、「染紙帖」の断簡が芸大本だと分かったところで思い浮かんだのが「翰墨城」の断簡です。これも巻第四の後半だったので疑問だったんですよね。そこで複製本を見てみたところ、鑑識眼に自信はありませんので断定はしませんが、芸大本に近い印象をうけます。しかもこれ「染紙帖」の断簡にすごく近いところなんですよ。青字が「染紙帖」、赤字が「翰墨城」の「絵因果経切」。

出家者亦願隨從於
是那提迦葉伽耶
葉各與二百五十弟
子至於佛所頭面禮
足而白佛言世尊唯

願慈哀濟度我等佛
言善來比丘鬚髮自
落袈裟著身即成沙
門時那提迦葉伽耶
迦葉又白佛言我諸
弟子今皆欲於佛法
出家唯願世尊垂愍
聽許佛即答善哉善
哉爾時世尊便呼善
來比丘鬚髮自落袈

その間わずか6行。しかもこれどちらも鈍翁に関わる手鑑なのです。そのことを考慮すれば、おそらく鈍翁が芸大本の15行(以上)の断簡を所有しており、それを切断して「染紙帖」や「翰墨城」に貼り込んだと考えられるのではないでしょうか。「染紙帖」は自分たちが作成した手鑑ですから、どこに貼るのも自由です。しかし、既に出来上がっている手鑑「翰墨城」に貼り込むには、何らかの理由でその貼り込むスペースが空かなければなりません。もちろん、鈍翁が手にする前から剥がれてスペースが空いていたという可能性もあります。しかし、「絵因果経切」とほぼ同寸の「翰墨城」から剥がされた「金剛般若経開題断簡」が存在する以上、そのあとに「絵因果経切」を貼り込んだと考えるのが自然でしょう。

というわけで、「金剛般若経開題断簡」を剥がしたあとには「絵因果経切(芸大本断簡)」が貼られたと結論づけたいと思います。

じゃあ、「石山切」は? 複製本解説を読み返してみると「この手鑑には、昭和四年以後欠落部分に貼り加えたものである」というわけで、鈍翁が何かを剥がしたのではなく、事前に剥がれていてスペースが空いていたみたいですね。

(追記)
すっかり忘れていましたけれども、No.53の「伝嵯峨天皇 飯室切」も後で貼り込まれたものですよね。「伝道円親王 記録切」と「伝覚誉親王 金葉集切」に挟まれていて、「嵯峨帝飯室切」の極札は鈍翁筆。これも鈍翁による改変でしょうか。