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高野切の書写スタイルと連綿について

【たのしい組版】「明朝体:仮名篇」メイド・イン・ジャパンの仮名文字デザイン | 読みやすさの科学 | NEXT TO NORMAL

ブックデザイナーで編集者の長田年伸さんが書かれた文章で、なかなかおもしろい記事なのですが、高野切と連綿について変なことを言っているので指摘しておきます。なお話の関係上、リンク先に掲載されている高野切の画像(巻一断簡、遠山記念館蔵)を翻刻しました。

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この断簡は2首の歌が書かれています。一つは

  • 詞書:ゆきのふりけるをよめる(雪の降りけるを詠める)
  • 作者:貫之(紀貫之)
  • 歌:かすみたちこのめもはるのゆきふれははなゝきさともはなそちりける(霞たち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける)

もう一つは

  • 詞書:はるのはしめによめる(春の初めに詠める)
  • 作者:ふちはらのことなほ(藤原言直)
  • 歌:はるやときはなやおそきときゝわかむうくひすたにもなかすもあるかな(春やとき花やおそきと聞きわかむ鴬だにも鳴かずもあるかな)

です。それを踏まえて、

日本文化のなかで育った人であれば、「高野切」の改行やバランス感覚を自然なものとして受け止めることが可能でしょう。けれど、これ、実際にはかなり特殊なことをやっています。

デジタル化されたインターフェイスを利用して文章を打つ場合、改行すると横書きなら左に、縦書きなら天側に、文字の位置はそろいます。「高野切」では天にそろっているところもあるものの、3行目は少し下がり、さらに4行目は極端にさがっています。にもかかわらず、視覚的な調和が保たれ、むしろそれをここちよくさえ感じることができる。

まったく意味がわかりません。強いて言えば、貫之歌の「かすみたち」を1行目、次歌の詞書を3行目、作者を4行目とすれば記述と一致するわけですが、それではおかしいですよね。

高野切は(他の多くの和歌写本同様)きっちりとしたスタイルをもった写本です。詞書は1字程度下げて書き始め、複数行にわたる場合は行頭を揃えます。作者は下から4分の1程度のところを中心として書かれます。和歌は1首2行書きで行頭を揃えます。左注は詞書と同様です。もちろん、散らし書きにするなどしてスタイルを崩している箇所はありますが、それは少なく例外的です(むしろ例外的だからこそ効果的なのではないでしょうか)。高野切について「視覚的な調和が保たれ」「ここちよく」感じるとすれば、それは整ったスタイルで書かれているからというのが大きいと思います。

連綿とは「つづけ字」のことで、二文字以上が連続して書かれる仮名文字のことを意味します。平仮名はアルファベットと同じ「表音文字」ですから、意味を取るには読者が記された文字を文節に分ける必要があります。連綿として書かれることで、平仮名は意味の連なりを示し、読みを助ける効果が得られます。

これは連綿と文節を一致させることで読みやすくしているということを主張しています。本当でしょうか? 貫之歌について見てみましょう。この上句を文節にわけるとすると、ひとまず「かすみたち(霞たち)」で切れます。次はむずかしい。というのも「はる」が掛詞で「木の芽も張る」と「春の雪」と二重に使われているため、どこで切れるかということを明確に言えません。

このことを頭に入れた上でリンク先の画像を見てみましょう。はい、連綿と文節が一致していないのが明らかですね。「たちこ」と文節をまたいで連綿し、文節内で切れています。掛詞の処理も、「春の雪」の方だけを続けて「木の芽も張る」の方はむしろ空白を開けています。筆者は掛詞の一方を切り捨てたのでしょうか。

読みを助けるために連綿と文節を一致させるという意見はおもしろいとは思うのですが、例外が多すぎるんですよね。単純に書き手の生理として、意味のかたまりと文字のかたまりが一致しやすいと考えておいた方がいいような気がします。

高野切は平安かな古筆を代表する遺品であり、しかもかなり読みやすい作品なので、くずし字だからと敬遠せず一度読んでみてはいかがでしょうか。

高野切第一種[伝紀貫之] (日本名筆選 1)

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高野切第二種[伝紀貫之] (日本名筆選 3)

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高野切第三種[伝紀貫之] (日本名筆選 5)

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