高橋箒庵「古経同好会」

高橋箒庵(1861-1937)の「古経同好会」全文です。底本は『大正茶道記 近代茶会史料集成1』(淡交社、1991年)、ルビは省略。根津嘉一郎田中光顕の所蔵する古経を購入、益田鈍翁らの求めに応じて開かれたお披露目会が「古経同好会」で、これはそのときの記録です。


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   古経同好会  〈大正九年一月三十日〉

          上
 根津青山、近頃田中青山伯旧蔵古経六十余巻を買入たるに就き、益田鈍翁其他同好者より其披露展観の所望あり。一月卅日午前十一時より赤坂青山根津邸に於て古経同好会の催しありしが、当日は寄付き八畳の床に顔輝筆百丈和尚肖像印月江讃の一軸を掛けて、丈高き小形春日卓の上に青磁袴腰小香炉を置き、床脇棚には鎌倉時代仏画厨子、池袋棚には蓋表安親作鉛製達磨、見返し富士三保蒔絵硯箱を飾り、第一関より経巻陳列の先容を示されしが、来賓は発頭人益田鈍翁の外に文学博士黒板勝美、白石村治、田中親美、梅沢安蔵、余が併せて六人にて、前美術学校長正木直彦氏は他約に依りて参会せざりき。斯くて一同上段十八畳、次の間十五畳の広間に打通れば、床には古宅磨筆と覚しき極彩色吉祥天の大幅を掛け、其前なる春日卓には支那発掘鍍金香炉を置き、書院には古筆帖、床脇棚には古銅観音立像及び雪舟筆日課観音巻を展陳せられ、座敷の中央に長テーブルを置きて経文環視に便ならしめしが、其片隅に積み上げたる数十巻の経巻は悉皆見尽すべきに非ざれば、最も有名なる十数巻を順次被検中、奥書其他殊に珍しく見受けたる者を左に掲げん。
        和銅大般若経巻二十三
 是れは元と近江甲賀郡甲賀寺蔵にて、古経巻収録諸書に載せられ最も有名なる者なるが、奥書に和銅五年歳次壬子十一月十五日庚辰竟とあり、長屋王が願主にて作られたる経巻にて折本と為り居れり。日本人の筆蹟と覚しくて、温順にして覇気なく、現今日本に存在する経巻中年次の古きに於ては、二、三番目に位する者なりと云ふ。
        観世音菩薩受記経
 此経巻は其奥書に天平六年、歳在甲戌始写、写経司治部卿従四位上門部王とあり。其の頃、朝廷には写経司と云へる官衙を置かれてるを証明する者にして、歴史上の好参考物たりとなり。
        仏本行集経巻第三十四
 此経巻は奥書に天平十二年五月一日記とあり。左れど是れは支那より輸入したる経巻にして、日本写経生の手に成りたる者に非ず。蓋し当時は其経巻の支那に於いて写されたると、日本に於いて作られたるとに論なく、併せて之を喜捨供養したる者の如く、奥書の年月日其供養の時日を認めたる者ならんと云ふ。

          中
 根津邸の古経同好会に於ては黒板博士が説明役を引受け、順次披陳せし経巻に対して一々解説を与へられしに依り、同好者一同大に発明する所ありしが、猶ほ引続きて展陳されたる経文中には更に左の諸巻ありき。
        根本説一切有部百一羯磨巻第六
 是れは無論唐人の筆と覚しく、文字割合に大きく筆勢濶達にして、一点一画自ら法度あり。経巻中名筆を以て名高き者なりと云ふ。従来唐人の筆蹟とて世に伝へらるゝ者は、多くは後代の作にして、其真蹟を見るべきは此経巻の外なければ、啻に古経としてのみならず、古墨蹟としても亦大に珍重すべき者なるべし。
        大般若波羅蜜多経
 此経の奥書には、天平十三年歳次、辛巳七月十八日奉為四恩写、檀越下村主広麻呂とあり。明かに願主の名を記入したるが珍しき者なり。
        大唐内典録巻第十
 此経の奥書には天平勝宝七歳、歳次乙未七月二十三日写、左京捌条弐坊三尾浄麿とあり。願主の住居町名を記入したるが珍らしき者なり。
        大法炬陀羅尼経巻第六
 此経の奥書には維天平宝字五年、歳次辛丑九月十七日願主僧光覚奉為皇帝后とあり。此経は世に同種類あり、願主の名に依て之を光覚経と称すとかや。
        註楞伽経巻第七
 此経は唐人筆と覚しく、字大きく処々に割註を加へたる者にて、字体頗る彼の大聖武に似たり。
        大乗起信論
 此経の奥書には神護景雲元年九月五日謹奉写竟とあり。而して、最初天平神護と書きたるを塗抹して、神護景雲と訂正したるは、此年九月五日に供養せんとて予め幾巻かを写し置きたるに、図らずも改元ありたるが為め其新年号を書入れたる者にて、自ら当時写経の有様を推知すべき者なり。
        大乗掌珍論巻上
 此経巻は全部胡粉の書入れあり。頗る彼の嵯峨天皇御筆に弘法大師胡粉書ある経巻に類似するものなるが、其巻末に胡粉にて、
  承和元年七月廿八日於岡基読了、嘉祥二年八月十五日一度勘了、同年九月五日薬師寺西院講
と云ふ奥書あり。最も能く此経巻の来歴を証明したる者にして、其岡基とあるは岡本を風雅に書き替へたる者なるべし。此他大官寺印ある経文、若くは本邦人の筆に成りたる解深密経など名経巻数々あれども、余り多数にして一時に見尽くすべきに非ざれば、当日は先づ此辺にて検覧を打切りたり。

          下
 今回根津邸に於て検覧したる田中伯旧蔵古経巻六十余巻は、明治初年世人が之を土芥視したりし時節に於て、熱心に蒐集せられたる者にして、唯其年代の古きのみならず、奥書其他何か一節変りたる者のみを選まれたれば、過日大蔵会に展陳されたる彼の厳島経巻、若くは久能寺経等の如く美術的装飾に富みたる者は少けれども、上代経巻のコレクションとしては、日本国中寺院と個人とに論なく之に匹敵するものなかるべしと云ふ。田中青山伯は古筆、古経及び刀剣に於ては素人鑑賞家中の白眉たり。随つて其収蔵も豊富なりしが、古筆物は先年挙げて原三渓氏に譲り、古経巻は今度当主人根津青山に譲られたる次第にて、甲州地方の月の如く、古経巻が青山を出て青山に入りたるは又一奇縁と云ふべきなり。兎に角、明治初年に於て其散逸に任せたらんには、已に反故紙と成り果てたりし者を、非常の丹精を以て一手に類聚し置かれたるは、古経巻に対する大恩人と云はざる可からず。而して今や巨資を投じて之を引受け、完全に之を保存せんとする篤志者、根津青山其人を得たるは同好者の欣賀措く能はざる所なり。本来日本人は古物のコレクション、即ち類聚を為して比較研究に資する者少く、此点に於ては西洋諸国の好事家に及ばざる事甚だ遠き者の如し。左れば、彼の国に於ては同種類多数相集まるに依りて其価格を倍加すれども、我国に於ては此が為に却て其値段を減ずるの事例なきに非ず。例へば過般分断されたる信実三十六歌仙の如き、二巻に纒まりたるよりも個々に分裂したる方が、却て高価に売れ行くを以て容易に其他を推知することを得べし。畢竟日本に於ては古来古美術工芸品を類聚して、自他共に比較研究に資するの習慣に乏しきが為めにして、或る好事家が多年折角の丹精を以て類聚したる者さへ、動もすれば分散せんとするの傾向多きは、古物保存及び其比較研究上甚だ憂慮すべき事どもなり。然るに今や根津君が田中伯の丹精を継承して、類聚経巻を一手に引受け、其同好者に対して比較研究上非常の便益を与ふる事と為りたるは、之を称して近来の雅挙と謂はざる可からず。本来日本国民は国宝たるべき美術品に対して適当の理解を有さず、富豪が之を買収するを見れば、斯る物品を購求する余裕あらば何として之を慈善事業に投ぜざるやなど誹謗するを常とす。斯くの如きは国宝を烏有に帰して、我国を砂漠の野蛮国と成さんと欲する者にして、静かに自問自答すれば何人も容易に其誤解を省悟する事を得べし。即ち我国民は今後国宝に対する観念を改めて、之を保護する者に対して深甚なる敬意を表するの覚悟なかる可からざるなり。偶々古経巻同好会に臨んで感ずる所あり、敢て一言して世人の考慮を乞ふ者なり。


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蛇足ながら。

和銅大般若経巻二十三
大般若経巻23(和銅経)。文化遺産データベース
「元と近江甲賀郡甲賀寺蔵」の「甲賀寺」は不明。和銅経は現在滋賀県甲賀市の3寺(太平寺・常明寺・見性庵)が主に所蔵しています。本巻は前後巻の所蔵先からするにもと常明寺蔵品か。「古経巻収録諸書に載せられ最も有名なる者」の「諸書」というのは分かりませんが、とりあえず養鸕徹定の古経題跋には掲載されています(和州薬師寺蔵、国立国会図書館デジタルコレクション - 古経題跋. 上)。和銅経の筆跡については、うまいという意見もあれば、底本(間違いなく請来経)を丁寧に真似ることに意識が行って硬さがあるという意見もあります。「日本人の筆蹟と覚しくて、温順にして覇気なく」からするに、箒庵は(というよりは同好会の意見として)後者よりなのでしょう。願文は硬さがなくいいと思います。

観世音菩薩受記経
観世音菩薩受記経(聖武天皇勅願一切経)。文化遺産データベース
聖武天皇勅願一切経は確実に現存するのが本巻含め重文指定された3巻、ほか数巻現存するかもというかなり稀少な写経です。「写経司」は内裏系統の写経組織で、皇后宮職(のち造東大寺司)系統の写経組織で五月一日経が書写されているのと並行して、天平15年ころまでこの勅願一切経が書写されていました。続日本紀には「門部王」が2人確認され、写経司の門部王はそのうち系譜未詳で天平3年正月に従四位上に昇叙された方だと推定されています。

仏本行集経巻第三十四
仏本行集経巻34(五月一日経)。文化遺産データベース
五月一日経の1巻ですが、五月一日経願文の前に、隋の清河長公主の願文が書かれています。これは底本のを転写したもの。「支那より輸入したる経巻」というのは、本巻が請来経でその奥に日本で願文を附して五月一日経に転用してものだという意見です。現在は、この考えは同意を得られておらず、日本で五月一日経の1巻として書写したもので、底本の清河長公主願文も写されたのだと考えられています。なおこれ以外にも、五月一日経には請来経の転用があるという説がかつてはありましたが、写経事業がある程度進んでから願文を附すことが決定されたため、尾題と願文の間に継目があり後から継いだことが明白な遺品が残り、それらが請来経の転用だと考えられたという経緯であり、現在は否定的です。

根本説一切有部百一羯磨巻第六
根本百一羯磨巻6(今更一部一切経、念林老人筆)。文化遺産データベース
根本説一切有部百一羯磨(根本百一羯磨)は全10巻で、白鶴美術館に巻5、聖語蔵に残りの8巻が伝存し完存しています。聖語蔵経巻のうち写経は6類に分けられ、このうち根本百一羯磨は第4類の神護景雲二年御願経(171点742巻)に分類されています。この神護景雲二年御願経とはもちろん称徳天皇勅願の一切経(景雲経)を意味しますが、景雲経願文を有する数巻を除き、その殆どが願文を有しないことなどから、本当に景雲経であるのか疑問視されていました。近年、願文を有しないものの大部分が今更一部一切経であるということが突き止められ、さらに書写時期や筆者が判明、この根本百一羯磨も念林老人なる人物の筆跡であることがわかったのです。造東大寺司系統の写経所で行われた写経事業の1つである今更一部に「唐人」が写経師として参加したというのは疑問。しかし、「名筆を以て名高き者なり」という評価は揺るがないでしょうし、写経1巻で国宝という破格の待遇は、その名筆であるということが理由のひとつでしょう。

大般若波羅蜜多経
大般若経巻12(下村主広麻呂願経)。文化遺産データベース
続日本紀養老4年6月戊申条に、河内手入刀子作広麻呂が下村主の姓を賜っている記述が見えますが、同一人物かと見なされています。

大唐内典録巻第十
大唐内典録巻9巻10残巻(六人部東人願経)。文化遺産データベース
巻9と巻10を合わせた残巻です。「左京捌条弐坊三尾浄麿とあり。願主の住居町名を記入したるが珍らしき」は誤解で、これは書写した人。願主は願文中に見える「国医師従八位上六人部東人」です。国医師は各国に1人置かれた医師で、東人の任国は越前国と推定されています。六人部東人の発願文を有する経巻は本巻が唯一の現存品です。

大法炬陀羅尼経巻第六
大法炬陀羅尼経巻6(光覚知識経)。文化遺産データベース
「此経は世に同種類あり」。勝浦令子さんは確実に確認できるものは29巻としています。

註楞伽経巻第七
註楞伽経巻7。文化遺産データベース
私が伝魚養筆本と呼んでいるものの巻7です。大字の注経。巻1残巻が京博、巻5が知恩院にありともに重文。巻6が切断され諸家蔵となっており、よく見かけるのはその断簡です。ほか巻4の残巻が伝存するとのこと。和経であるというのが、現在の一般的な認識であろうと思います。いいものなので「唐人筆」という推定をしているのでしょうが、日本で写されたのであれば、唐人ではないでしょうか。無跋なので詳細不明、せめて伝来がわかれば。

大乗起信論
不明。解説からして行信経なので、瑜伽師地論巻13の間違いでしょうか。瑜伽師地論巻13(行信願経)。文化遺産データベース
細かく言えば天平神護三を神護景雲元に訂正、かつ塗抹ではなく擦り消し。現存巻で訂正していないものはなかったはず。つまり、8月16日の改元以前に多くの写経が終っていたと思われます。願文に2700巻とあるので、9月5日に供養する予定なら8月16日にはだいぶ進んでいたでしょう。

大乗掌珍論巻上
大乗掌珍論巻上残巻。文化遺産データベース
「頗る彼の嵯峨天皇御筆に弘法大師胡粉書ある経巻に類似する」は大字の方の飯室切(金光明最勝王経注釈)でしょうか。頗る類似するとは疑問ですが、確かに通うところはあるような気がします。時代が近いせいなのか。

此他大官寺印ある経文、若くは本邦人の筆に成りたる解深密経
この2つは分かりませんでした。

古筆物は先年挙げて原三渓氏に譲り
田中光顕の古筆コレクションは原三渓に行っているんですね。これは初耳。気になります。

基氏展、リスペクト展ほか

ふらっと鎌倉へ。

とりあえずの目的は、鎌倉国宝館での「鎌倉公方足利基氏」展。古文書ばかりでなかなか難しい展覧会でした。ただ、「この世は夢のことくに候」で始まる尊氏の清水寺願文が展示されていたのは嬉しいところ。また義堂周信の空華集は基氏の依頼で直義に捧げた詩、また空華日用工夫略集は基氏が亡くなった日を開いており、興味深く拝見しました。前者はMuromachi通りというブログで解説されてます。後者は国立国会図書館デジタルコレクション - 続史籍集覧. 第3冊にてその箇所が読めます。「廿六日。又告府君遂薨。余乃入府以手摩其体徧身猶煥。」

続いて鎌倉文学館に。

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鎌倉文学館

建物が目的だったのですが、「リスペクト 好き、好き、大好き」展にて「僕ハモーダメニナツテシマツタ」で始まる子規が漱石に送った最後の手紙が展示されていたのが思わぬ収穫。また三島が川端に贈った書「定家卿伝授に歌道の至極は身養生に極まり候由」も。出典は葉隠ですが、この定家卿伝授とはいったい何でしょうか。

大仏さんにご挨拶。

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鎌倉大仏

その後、長谷寺によって縁起絵巻を拝見しました。巻替えしつつの全巻展示の最中で、今はそれほど見ごたえのあるところというわけではなくすこし残念な気持ちも。ただ常設の梵鐘、懸仏や土中に埋まっていたため状態が非常にいい宝篋印塔が陽刻された板碑など、なかなか見ごたえのあるミュージアムでした。

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江の島

江の島に寄った時はもう夕暮れ。

根津美術館の古写経展示

根津美術館では現在「鏨の華」展という刀装具の展覧会を開催していますが、2階の展示室5では並行して古写経が展示されています。展示タイトルは「国宝 根本百一羯磨」、根津美術館所蔵の国宝根本百一羯磨巻6に、僚巻で白鶴美術館所蔵の重文巻5、さらに根津美術館所蔵の五月一日経7巻です。

前回の古写経展示は2015年の「根津青山の至宝」展での、同じ展示室5を使用してのものでした。この時は五月一日経は1巻も出ておらず、今回まとめて出陳し、合わせて美術館の奈良写経コレクションを概観するといった感じでしょうか(根本百一羯磨は重複)。ただ、この2回でも出ていないものもあり、今後に期待しております(来年の予定は既に発表されていて古写経展示はなし、再来年以降ですね)。

根本説一切有部百一羯磨(根本百一羯磨)は全10巻で、他の8巻は聖語蔵にあります。聖語蔵は東大寺の塔頭・尊勝院の経蔵で、大量の経典が収められていました。明治時代に皇室に献上され、同じく献上された正倉院およびその宝物と一括管理。国有となった現在も聖語蔵経巻は正倉院事務所が正倉院宝物とともに管理しています。そのため正倉院聖語蔵経巻とよばれ、正倉院宝物に大量の経巻が含まれているかのような誤解を招きそうですが、正倉院宝物と聖語蔵経巻の伝来は異なるんですね。正倉院宝物のなかには経典・仏像・仏画などの純宗教的なものが殆どないという点、わりと興味深いことではないかと思います。聖語蔵経巻が正倉院宝物であると誤解をすることで、その点がボケてしまうと思うので、きっちり区別しておきたい。

それはさておき。5000巻を越える聖語蔵経巻は写経・版経・雑書に大別され、写経はさらに6類に分類されさています。このうち第四類神護景雲二年御願経は740巻ありますが、そのうち景雲経願文を有するのはわずかに4巻、その他の無跋の経巻は実は景雲経とは異なるのではないかと従来から指摘されていたそうです。最近になって、この無跋の経巻はそのほとんどが今更一部一切経であると、飯田剛彦さんによって突き止められました。簡単に言うと、現存する聖語蔵経巻と、正倉院文書に残る今更一部の作業記録がよく一致するということによって示されたものです。(「聖語蔵経巻「神護景雲二年御願経」について」、PDF)。

この調査で副次的に各経巻の担当経師(筆者)や書写時期が判明します。根本百一羯磨は宝亀6年1月から2月に念林老人なる人物によって写されたことがわかりました。これは聖語蔵経巻についての調査であるものの、もちろん僚巻の根津本・白鶴本にも適用可能。というわけで、出品目録や展示キャプションの作者欄に「念林老人筆」と書かれているわけです。制作年欄を「宝亀5−7年」として、今更一部全体の制作年に広く取っている理由はわかりませんが。

奈良写経は大量に残っています。聖語蔵だけでも1400巻以上あり、そのほか数百、数十とまとまった量を所蔵する機関が各所にあります。現存するのは万巻は越えるでしょう。つまり奈良写経は貴重であることは間違いありませんが、稀少とは言えないものなんですね。そのなかで、わずか1巻で国宝指定を受けるというのは尋常ではない破格の扱いです。根津本は国宝、白鶴本は重文と差があるのは状態の違いでしょうか。それでも装飾経ではないにも関わらず1巻で重文指定は、数多くはないですね。ではなぜ、この根本百一羯磨が別格の扱いを受けるのか。理由の1つは珍しい大字経(1行12字程度)であること。もうひとつは筆跡でしょう。名筆と評価が高い故の指定であると思います。

他7巻は五月一日経。瑜伽師地論巻24のみ作者と制作年が記されています。これも正倉院文書の研究によるもの。松本包夫さんの「聖語蔵五月一日経の筆者と書写年代その他(二)」において、聖語蔵に残る瑜伽師地論の担当経師と書写時期が明らかになっています。この巻24についても聖語蔵には現存しないと注記しつつ両者が書かれており、それに依るものでしょう。他の6巻については、奈良時代古文書フルテキストデータベースでざっと検索したところ、おそらく判明し得ないものではないかと思いますが、正倉院文書は私にはちょっと難しいので、断定する自信はありません。

仏本行集経巻33には、底本に書かれていたと思われる隋の清河長公主の願文が、尾題の後に転写されています。その後に五月一日経願文。採華違王上仏授決号妙華経は巻末3紙の断簡。大乗同性経巻上と大方広十輪経巻4は重跋あり。このうち後者は山下有美さんの「嶋院における勘経と写経」に掲載された「表1 五月一日経重跋」には漏れています(僚巻の巻1・2・3・6・7はあり)。

  • 瑜伽師地論巻24(五月一日経)高忍熊筆、天平11年(739)
  • 佛本行集経巻33(五月一日経)
  • 中陰経巻下(五月一日経)
  • 採華違王上仏授決号妙華経残巻(五月一日経)
  • 十誦律巻56(五月一日経)
  • 大乗同性経巻上(五月一日経)
  • 大方広十輪経巻4(五月一日経)
  • 根本百一羯磨巻5(今更一部一切経)念林老人筆、宝亀5−7年(774−776)、白鶴美術館蔵
  • 根本百一羯磨巻6(今更一部一切経)念林老人筆、宝亀5−7年(774−776)

巻子本古今集(仮名序)の唐紙

益田朗詠(東博本)の唐紙 - ときかぬ記につづいて、今回は巻子本古今集の仮名序巻の唐紙。全33紙すべて舶載唐紙です。

まず、『料紙と書』*1p182の「古今和歌集序(巻子本)(大倉集古館蔵)料紙装飾一覧」(以下「一覧」)を転載します。なお、

1、「刷り方」欄において、雲母刷り→雲、黄雲母刷り→黄雲、空刷り→空、のように略記して示した。
2、「具引き色」欄において、「*白」と示したのは、純白でない少し黄みがかった色を示す。

紙継 型文様 刷り方 具引色 布目
1 花襷 黄雲 *白
2 牡丹・蓮唐草 濃朱  
3 鶴・朽葉 淡朱
4 獅子二重丸唐草 *白
5 飛獅子唐草
6 宝相華唐草  
7 小宝相華唐草 黄雲
8 花襷 *白
9 鶴・蓮唐草  
10 獅子二重丸唐草 *白
11 牡丹・蓮唐草 淡朱  
12 小宝相華唐草 黄雲
13 飛獅子唐草
14 波・人物群像  
15 鶴・朽葉 淡朱
16 獅子二重丸唐草 *白
17 獅子二重丸唐草 *白
18 殿舎・人物群像 濃朱  
19 合生唐草 黄雲
20 鶴・朽葉 淡朱
21 鶴・蓮唐草  
22 飛獅子唐草
23 牡丹・蓮唐草 淡朱  
24 獅子二重丸唐草 *白
25 孔雀・宝相華唐草  
26 合生唐草 黄雲
27 飛獅子唐草
28 獅子二重丸唐草 黄雲 *白
29 鶴・朽葉 淡朱
30 波・人物群像  
31 花襷 黄雲
32 亀甲
33 鶴・朽葉

つづいて、四辻秀紀さんの「平安時代の調度手本にみられる唐紙・蠟牋についての一考察」(以下「一考察」)*2の解説(p234-235)。

巻子本古今和歌集 伝源俊頼筆 大蔵文化財団ほか諸家分蔵
 もとは「仮名序」を添えた『古今和歌集』全巻が書写されていたと考えられ、現在は「仮名序」の首尾を完存している一巻(大蔵文化財団蔵)および巻第十三の零巻一巻(個人蔵)が、巻子装のままのかたちで伝存し、他は断簡として諸家に分蔵されている。
(略)
 この「巻子本古今和歌集」の「仮名序」には左記の文様の唐紙・蠟牋が用いられている。
 1 獅子二重丸二重蔓唐草文(図版25)
 2 飛獅子唐草文(図版26)
 3 雁蓮華唐草文(蠟牋)(図版27)
 4 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文(蠟牋)(図版28)
 5 宝相華唐草文
 6 合生唐草文
 7 花襷文(図版29)
 8 雲鶴文(図版30)
 9 亀甲繫文
 10 孔雀宝相華唐草文(蠟牋)(図版31)
 11 大宝相華唐草文(蠟牋)(図版32)
 12 殿舎人物群像(蠟牋)(図版33)
 13 波人物群像(蠟牋)(図版34)

「一覧」と「一考察」とは文様の名称に違いがあります。「一考察」の方を軸に比較表を作ります。

一考察 一覧
1 獅子二重丸二重蔓唐草文 獅子二重丸唐草
2 飛獅子唐草文 飛獅子唐草
3 雁蓮華唐草文 鶴・蓮唐草
4 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文 牡丹・蓮唐草
5 宝相華唐草文 小宝相華唐草
6 合生唐草文 合生唐草
7 花襷文 花襷
8 雲鶴文 鶴・朽葉
9 亀甲繫文 亀甲
10 孔雀宝相華唐草文 孔雀・宝相華唐草
11 大宝相華唐草文 宝相華唐草
12 殿舎人物群像 殿舎・人物群像
13 波人物群像 波・人物群像

細かい違いを無視すると、問題となるのは次の6文様の名称。

一考察 一覧
1 獅子二重丸二重蔓唐草文 獅子二重丸唐草
3 雁蓮華唐草文 鶴・蓮唐草
4 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文 牡丹・蓮唐草
5 宝相華唐草文 小宝相華唐草
8 雲鶴文 鶴・朽葉
11 大宝相華唐草文 宝相華唐草

1は益田朗詠にあわせ、3の鳥は雁に見え、4も図版を確認する限り少なくとも「富貴命」の3字は確認できるので、いずれも「一考察」に従います。5と11の組も「一考察」のを採用します。

太田彩さんは「「粘葉本和漢朗詠集」と「金沢本万葉集」にみる料紙の装飾と文様」(『料紙と書』所収)において、いくつかの唐紙文様の名称を従来のものから変更しています。この巻子本古今集に関わるものは以下の3つ。

  • 雲鶴文→飛鶴宝相華文
  • 合生唐草文→瑞果花唐草文
  • 亀甲繫文→亀亀甲繫文

雲鶴文→飛鶴宝相華文については

この文様は"雲鶴文"とされてきたもの。しかし、雲とされてきた意匠は、宝相華の葉(花枝)が飛遊するようにデザインされているものとみられ、飛鶴の中にこれを銜える鶴がいる。

合生唐草文→瑞果花唐草文については

これまで"合生唐草文"とされてきたもの。しかし、詳細にみると、蓮実、石榴、仏手柑、茘子、瓜、桃(カ)の六種類の瑞果(吉祥果)が左右に二つ、その上にそれぞれの花を配置する文様であるため、この名称とした。

亀甲繫文→亀亀甲繫文については、従来の「亀甲繫文」という名称を否定する文言はありませんが「亀を亀甲の中に表して連続させた文様」なので、文様の形容としてより相応しいと思います。

これら3点は太田さんの名称を採用します。また、殿舎人物群像と波人物群像も文様なのだから「文」をつけて他と揃えます。以上まとめて、

紙数 型文様 刷り方 具引色 布目
1 花襷文 黄雲 *白
2 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文 濃朱  
3 飛鶴宝相華文 淡朱
4 獅子二重丸二重蔓唐草文 *白
5 飛獅子唐草文
6 大宝相華唐草文  
7 宝相華唐草文 黄雲
8 花襷文 *白
9 雁蓮華唐草文  
10 獅子二重丸二重蔓唐草文 *白
11 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文 淡朱  
12 宝相華唐草文 黄雲
13 飛獅子唐草文
14 波人物群像文  
15 飛鶴宝相華文 淡朱
16 獅子二重丸二重蔓唐草文 *白
17 獅子二重丸二重蔓唐草文 *白
18 殿舎人物群像文 濃朱  
19 瑞果花唐草文 黄雲
20 飛鶴宝相華文 淡朱
21 雁蓮華唐草文  
22 飛獅子唐草文
23 富貴長命文字入蓮華・牡丹唐草文 淡朱  
24 獅子二重丸二重蔓唐草文 *白
25 孔雀宝相華唐草文  
26 瑞果花唐草文 黄雲
27 飛獅子唐草文
28 獅子二重丸二重蔓唐草文 黄雲 *白
29 飛鶴宝相華文 淡朱
30 波人物群像文  
31 花襷文 黄雲
32 亀亀甲文
33 飛鶴宝相華文

なお、巻子本古今集は仮名序以外にも遺っており、なかには仮名序巻には使われていない文様の唐紙もありますが、それについてはまた別の機会に。

*1:思文閣、2014年

*2:金鯱叢書』24輯(徳川黎明会、1998年)所収

益田朗詠(東博本)の唐紙

益田本和漢朗詠集(益田朗詠)には唐紙(蠟箋)が使われています。東博所蔵の巻下はほぼ完存で、全48紙のうち8紙が唐紙(すべて蠟箋)。この唐紙について『料紙と書』*1p183の「和漢朗詠集巻下(益田本)(東京国立博物館蔵)料紙装飾一覧」(以下「一覧」)から必要部分を抜き出すと以下の通り。紙数のリンクはe国宝の該当箇所へのリンクです。

紙数 料紙
6 唐紙(大七宝唐花文)
13 唐紙(獅子二重丸唐草文)
25 唐紙(大七宝唐花文)
39 唐紙(大七宝唐花文)
44 唐紙(大七宝唐花文)
46 唐紙(牡丹唐花文)
47 唐紙(牡丹唐花文)
48 唐紙(牡丹唐花文か)

また四辻秀紀さんの「平安時代の調度手本にみられる唐紙・蠟牋についての一考察」(以下「一考察」)*2の解説(p234)は次の通り。なお、図版部分をコピーをしなかったため、図版についてはいまは確認できません。

益田本和漢朗詠集 伝藤原公任筆 一巻 東京国立博物館
 『和漢朗詠集』上下二巻のうち、内題・月次・尾題を欠いてはいるが、巻下の完本で、旧所蔵者である股野琢(藍田)、益田孝(鈍翁)の名に因み「股野朗詠」「益田朗詠」とも称されている。巻上は早くに散逸し、数葉の断簡が知られるのみである。
 書は縦長ぎみの字形で、行間の狭さは感じられるものの、墨継ぎを明確にして軽快で暢達した筆致を示している。
 料紙は、雲母引きの白紙や紫・縹・薄茶などの染紙や打曇紙・飛雲紙のほか茶・縹・朱の具引地に文様を空摺りにした蠟牋など種々の紙四十八枚を交用している。このうち巻末に次の舶載の蠟牋三枚が使用されている。
  1 獅子牡丹唐草文(蠟牋)(図版22)
  2 唐子牡丹唐草文(蠟牋)(図版23)
  3 獅子二重丸二重蔓唐草文(蠟牋)
 また上巻の「鶯」の佳句の部分の断簡(個人蔵)には、次の文様の蠟牋が使用されている。
  4 大七宝繫文(図版24)

同じく四辻さんの「「法華経冊子」の成立年代をめぐって」(以下「冊子」)*3の益田朗詠の解説は以下の通り。なお「法華経冊子」とはいわゆる上野本で京博現蔵の重文、解説中の「本冊子」もこの「法華経冊子」を指しています。

「益田本和漢朗詠集」伝藤原公任筆 一巻 東京国立博物館
 旧所蔵者である股野琢(藍田)、益田孝(鈍翁)の名にちなみ「股野朗詠」「益田朗詠」とも称されている『和漢朗詠集』巻下の完本で、紫・縹・薄茶などの染紙や打曇紙・飛雲紙、蠟牋四十八枚を交用し染筆されている。このうち蠟牋は巻末に三種三枚が使用されており、獅子二重丸二重蔓唐草文が本冊子と共通している。

また同論文に掲載された「表1」から必要な部分を抜き出すと

益田朗詠集
獅子二重丸二重蔓唐草文
獅子牡丹唐草文
唐子牡丹唐草文
大七宝繫文

以上を踏まえて、まず巻末3紙である第46第47第48紙について。『料紙と書』の「一覧」では「牡丹唐花文」「牡丹唐花文」「牡丹唐花文か」としている一方で、「一考察」では「獅子牡丹唐草文」「唐子牡丹唐草文」「獅子二重丸二重蔓唐草文」です。第46紙はここに獅子らしきものが見えるので「獅子牡丹唐草文」でいいでしょう。第47紙はここに人物らしきものが見えます。またこれも人物か。唐子かどうか判然としませんが、とりあえず「唐子牡丹唐草文」としましょう。第48紙はこの辺が見やすいでしょうか。左側の獅子は右半分しかありませんが二重丸に囲まれ、その右隣「とし月」の「し」に沿うように見える蔓が見えます。この蔓が「二重」ということについては後述。「獅子二重丸二重蔓唐草文」でよさそうです。

というわけで、四辻さんの方が信用できそうなのですが、なぜか巻末3紙しか指摘していないんですよね。疑問です。『料紙と書』の「一覧」にある通り第6第13第25第39第44紙も唐紙(蠟箋)に見えるので。そこで「一覧」とe国宝の画像を比較してみると、まず第44紙を「大七宝唐花文」としているのは間違いでしょう。第13紙および第48紙とおなじ文様で、「一覧」では第13紙を「獅子二重丸唐草文」と呼んでいますが、ここは第48紙の呼称に合わせて「獅子二重丸二重蔓唐草文」とします。第44紙のこの辺、2本の蔓が絡まるようになっています。こういうのを指して「二重」と呼んでいるのでしょうか。(追記)と書きましたが、なんか違うような気もします。蔓が2本線で描かれていることを指して二重と称していると考えるほうが妥当でしょうか。しっくりこないところもあるのですが、いちおうここでは「獅子二重丸二重蔓唐草文」の呼称を使うこととします。(追記了)

残りの第6紙第25紙第39紙は七宝繫文で、「一覧」は「大七宝唐花文」としています。ここで、「一考察」の解説の末尾をみると、個人蔵の断簡に「大七宝繫文」の蠟箋が使われていると書かれています。そこで「冊子」の方の「表1」を見ると「大七宝繫文」にチェック(●)が入っていますが、同様に「倭漢抄」(近衛朗詠)も「大七宝繫文」にチェックが入っています(後者は上では引用していません)。すなわち近衛朗詠にも「大七宝繫文」が使われているらしい。そこで「一考察」を見ると、なぜか近衛朗詠の解説には「大七宝繫文」がなく、代わりに「花七宝繋文(図版12)」なるものが見えます。ならばこの「花七宝繋文」が「大七宝繫文」なのかと思うと、しかし「一考察」の同版を整理したところで「花七宝繫文」に挙げられているのは近衛朗詠と久海切のみで益田朗詠はありません。うまく説明することができないため私が何を言っているのか理解できないかもしれませんが、要するに四辻さんの2つの論文には混乱があるかもしれないということです。ちゃんと図版部分もコピーしておけばはっきりしたのでしょうけれども。とりあえずは「大七宝繫文」としておきましょう。大きな七宝繋なので。

以上まとめて

紙数 料紙 具引き
6 蠟箋(大七宝繫文)
13 蠟箋(獅子二重丸二重蔓唐草文)
25 蠟箋(大七宝繫文)
39 蠟箋(大七宝繫文)
44 蠟箋(獅子二重丸二重蔓唐草文)
46 蠟箋(獅子牡丹唐草文)
47 蠟箋(唐子牡丹唐草文)
48 蠟箋(獅子二重丸二重蔓唐草文)

料紙と書: 東アジア書道史の世界

料紙と書: 東アジア書道史の世界

*1:思文閣、2014年

*2:金鯱叢書』24輯(徳川黎明会、1998年)所収

*3:金鯱叢書』31輯(徳川黎明会、2004年)所収